沙羅双樹


真夏の夕暮れ時に、不意にある風景の中。
涼しい風が木の葉をそよそよと揺らす中、その木の影に鍾会はいた。
あたりに落ちている白い花々。
緑色の苔の上に散るその花々は涼しげであった。

「なんですか、先程から。」
鍾会は司馬昭の方へは視線も向けずに呟いた。
「なんでそんなところに突っ立っている?」
「別に意味はありませんが。」
「そうなのか。・・・中で待っていればいいものを。」
「・・・屋内はどうも。」
鍾会は肩をすくめた。
そもそも、わざわざ司馬昭の家に来たのに散々待たされているのだ。外をうろうろするくらいいいでしょう?とでも言いたげな口調。
そして 王元姫が嫌いな彼は、同じ屋根の下にいたくもないのだろうか?・・・咄嗟に司馬昭は考えたが、流石にそんなわけはないだろうなと思う一方で、いや、あの鍾会だったらそこまで考えるかも、とも思った。
だが、そんな理由などどうでも良かった。
司馬昭の目には そこに鍾会がいることが、まるで一枚の絵のようにとけ込んでいた。
そこにいなければいけないような必然性。
「本当になんですか、先程から。そんなに見られては穴があいてしまいますよ。」
鍾会がくす、と笑って言う。
見とれているのを見透かされたのか、あるいはかまをかけられたのか。
近づいてきて、そして軽く唇に触れる。
「お戻りになったのでしたら、中に入りましょう。わざわざあなたを外に出させるとは、気が利かない・・・」
誰が気が利かないのか、それは敢えて聞かないことにした。
聞いてもろくな事がないのは解っているから。
そして、司馬昭としてもそれを聞いてしまう事に多少の罪悪感を感じたから。


「嫌だわ、あの男が同じ屋根の下に今、いるなんて。」
王元姫の溜息混じりの声は、風が揺らす木の葉が消してくれたようだ。
美しい月明かりの中、ぼんやりと空を見上げながら、庭を歩いている。
どうせ今宵は帰らないのでしょう・・・そう考えるだけで腹は立つものの、でも、そういう趣味の男もいるわけだしと思わなくもない。
だがいくらそういう趣味だろうが、相手が美少年?で絵になろうが、嫌なモノは嫌なわけであり、しかも彼にされた嫌がらせを思い出すだけでもむかむかしてくる彼女としてはやはり不愉快さは隠せないのである。
今夜は侍女も側室も皆ひっそりしている。
彼女が八つ当たりすることなど無いのだが、仮に今夜であったとしても何を話して良いのかわからないから皆、ひっそりしているのだろう。
そのような空気も彼女を益々苛立たせた。
少し涼んだら中に入って今宵はもう寝ましょう・・・そう思いながら、庭の中をゆっくりと歩いていたのだ。
冷たい月の光と、心地よい夜風。
揺れる木々に夏の花々は美しく、彼女は少しだけ、心の中が澄んだような気になった。
ひとたび気分がよくなると、今の苛々が一瞬、頭から抜ける。
もう自分は、その夜の空気の中の花の精でもあるかのように、俗世を忘れて空想の中にいた。
「笛でも吹いたら素敵かしら?・・・ふふ・・・」
そう言うと、胸もとに刺していた横笛を手に取る。
一番好きな楽器は琴なのだが、笛は何故か上手であった。
口にあてて、少し吹いてみる。


「へえ・・・子上様のところにも、随分と風流な方がいらっしゃるんですね。」
鍾会が呟いた。
司馬昭ほどの家になれば、当然ながら楽士や芸妓などいくらでもいるであろうが、鍾会の目を引くような者はいない。もっとも、鍾会は最初から女は目に入らない、というのも差し引かねばならないが。
「・・・・・」
司馬昭は答えなかった。
いくらなんでも彼には解る。妻の笛の音ということが。
その微妙な顔色を、鍾会はすぐに察する・・・そういうところが、司馬昭にとって不気味なほど怖いのだが、男女の差はなく、恋人のそういう仕種に普通の人間は妙に敏感なもの。司馬昭が少々鈍いだけで。
「奥方ですか。」
「・・・ああ。多分な。」
「こういう手で邪魔をするなんて、随分知恵がついたものですね。」
「いや・・・・」
多分、邪魔するとかそんなことは考えていない・・・筈。
今、笛を吹きたい気分だったのだろう・・・それだけの理由しか無いと思った。
だがそれを鍾会にわざわざ言うのも、言い訳がましくて嫌だなと思ったりもする。



一曲終わり、涼しい風が頬を撫で、そして木の葉が彼女の頬に、ほんの少し触れたときに彼女は我に返った。
私って。
もしかしてこの笛の音が響き渡っていれば、自分はものすごい意地悪をしてしまったことにならないかと。
鍾会はどうでもいい。どうでもいいが、あの鍾会にそう思われるのも腹立たしいし、何より司馬昭にそう思われたくは無かった。
「・・・あーあ・・・やっちゃった。」
一人肩をすくめると、彼女は自室に入った。


上手く存在をアピールされてしまった鍾会は、実は相当興ざめ状態だった。
あの笛の音。確かにいい音色で聞き惚れるだけのことはあるが・・・司馬昭も、もう少し上手く嘘はつけないものか。だが、嘘をつく、つかない以前、気が利かないだけなのだ。
そう思うと妙に苛々してきたり。
「・・どうした、士季?」
「別に。すばらしい笛の音に感動のあまり言葉が出ないだけですよ。いっそ、その場で聞きたいものですね。」
「妻を見せ物にするような趣味はない。」
「そうでしょうね、あなたなら。他の女性は見せ物にしても、あの方にだけは絶対にそういうことはしないでしょうね。」
「・・・・・・」
司馬昭は、ああ、そうかもしれないと思った。
代わりの絶対いない女、それだけは自分で解っている。彼女の背景にあるものも含めて。
いや、背景だけではなくやはり彼女自身がどこかで司馬昭を支えているという自覚を持っているから。
だが、鍾会も同じだ。
彼の代わりなどいない。
「今宵は帰っても宜しいでしょうか。」
「ああ。」
司馬昭は頷くだけで、謝ることもなかった。



静かになり、そして夜も更けてから司馬昭は庭に出た。
先程鍾会が立っていた場所・・・やはり彼はそこに溶け込んでいたようで、その姿がないと寂しいという気持ちにすらさせた。
だが、ふと背後から、先程の笛が聞こえる。
振り返ると王元姫が立っていた。
彼を見て、にっこりと笑う。
「・・・ごめんなさいね。」
「ああ・・・」
寂しいと思っていた矢先の出来事に、彼は少々驚いた。
そして、その言葉で全てを悟る。
「許してくれる?」
「許すもなにも。士季は勝手に帰ったんだ。かまわんよ。」
「そう?」
「ああ。ついでに笛の音も誉めてたぞ。」
「まあ、薄気味悪い。・・・でも、あの方に誉められるなんて私もなかなかのものでしょう?」
「だな。」
にっこりと二人は笑いあった。


王元姫は司馬昭の腕の中で、そして鍾会は遠い場所で。
司馬昭に対して同じ事を思っていた。

あなたは得な人ね。寂しい事って知らないでしょう。だって、私達のどちらかが必ずこうして埋め合わせをしているのだから。
でも。
あなたは幸せでも、私達の葛藤は徐々に冷たく、執念深いものになっていくってことも、知らないでしょうね・・・・。

不思議なものだ、と思った。
司馬昭を挟んで同じ気持ちを共有しているのだから。
それだけ自信がある証拠であり、また、どちらも一歩引かない証拠。
王元姫だって、ただ泣いているだけのお姫様ではなくなり、鍾会はよりしたたかに相手を自分の方へ引きずり込むことに長けてきた。
「そこまでして、あなただけ無傷にするつもりはないからね・・・なんてね。」
ぽつりと囁く声は、王元姫のものであり、鍾会のものでもある。
でも、司馬昭を引き裂いてでもお互いに引くことを知らない、というのは司馬昭は気がついてないのかもしれない。
「どちらかを選べなんて言われたらどうするのかしら。でもあなたは、私達が決してそう言わないことを知っているから、選んだのかもね・・・」
王元姫はそう言って目を閉じた。
きっと鍾会もそう思っているのだろう。
こうして腕の中にいるのが、明日には彼かもしれないけれど、でも、同じ事を自分たちはずっと想い続けていくであろうと。

終 
2006.Aug.16


余談
「どちらかを選べと?無理だ。私には兄上が・・・・」
そんな事を言ったら二人に八つ裂きにされて食われるに違いない。
男冥利に尽きる・・・・?
(ソウイウハナシハカキタクナイケド)


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